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『野球つく!!』

大人になった野球少年たちに贈る

スペシャルインタビュー

伝説の甲子園バックスクリーン3連発を決めた男 岡田彰布

1985年、世紀に沸いた「タイガース・フィーバー」の原点ともなった甲子園バックスクリーン3連発。今なお語り継がれるこの伝説を完成させたのが、当時五番を打っていた岡田彰布氏。その岡田氏が「プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2」についに登場する。岡田氏には伝説の本塁打、また指導者としての話などを語っていただいた。

取材協力:阪神甲子園球場、ノボテル甲子園

優勝したからこそ、あの3連発は伝説として語られるようになった―――

いま見ていただいた「野球つく」はオーナー兼監督として、チームを強くしていくゲームです。岡田さんは阪神、オリックスで8年監督を務められましたが、監督業の難しさもあったのではないでしょうか。

岡田
阪神のときは5年間二軍を見てたからね。若手選手の能力は把握しとったから、監督になったとき、選手起用はスムーズにいったよね。

岡田さんの阪神監督時代の一番の功績というと「JFK」の確立ですよね。

岡田
二軍のとき、藤川(球児)を先発で使ってたんやけど、一軍に行くんやったら、先発では無理やなと思った。短いイニングやったら、あの球威が生きるんやけど。どうしても球数が増えると球威が落ちるんだよね。03年も一軍の先発をやってるんだけどダメで、一時は戦力の構想から外れてトレード要員やったからね。

適材適所を見つけて、彼を生き返らせたわけですね。

岡田
久保田(智之)にしても二軍で見てたときに短いイニングで使いたいと思ったからね。監督1年目の04年の夏にアテネ五輪があって、その時にリリーフをやっていた安藤(優也)とウィリアムスが抜けたんよ。それで2イニング空いたから藤川、久保田の試運転ができた。

それで05年に「JFK」が誕生するわけですね。

岡田
オリンピックのお陰やね。僕は野手をやってたから、ラッキー7の7回になると、なんか点が入るような気がしてたんよ。その逆の発想で7回から3イニング、相手の攻撃を止めて諦めさせようと考えて、3人を使うようになった。監督というのはゲームの勝ち負けよりも、そういう編成を替えたり、打順を替えて、それが機能することが面白いよね。

オリックスの監督時代は?

岡田
戦力把握がなかなかできんかったね。僕が監督になった10年は、ピークを過ぎた選手も多かったしね。若手を見られたのは11月のキャンプのときぐらいで、2月のキャンプは一、二軍を振り分けるからなかなか見られない。チーム編成を考えるのはしんどかった部分もあったね。

岡田さんは自身が80年に阪神に入団したとき、ブレイザー監督のチーム編成上、なかなか出場できないこともありました。まずお聞きしたいのが、大学時代のポジションであった三塁へのこだわりは?

岡田
ドラフトで6球団の指名を受けて、5球団は三塁は空けて待ってくれてる感じやったけど、唯一空いてなかった阪神がクジを引き当てて。最初から違うポジションで挑戦することは考えてはなかったけど、チーム編成上しょうがなかったよね。当時は海外キャンプ(アリゾナ)前には合同自主トレがあって、そのときにブレイザーが、メジャー式では新人は最初から使わないという話をしとった。キャンプに行く前からそんなこと言われてもとは思いましたけど、それは監督の考え方だからしょうがない部分もありました。

キャンプ中、ヤクルトを自由契約になった二塁手のヒルトンが入ってきました。

岡田
ビックリしたね。報道もされてなくて、ヒルトンがチームに合流する前日に、中西(太)コーチがグループ分けの発表で「ヒルトン」と言ったもんだから、「ヒルトンって誰や」となった(笑)。多分、日にちを間違えてたんちゃうかな。

監督はゲームの勝ち負けよりも編成を替え機能することが面白い―――

結局、ヒルトンを二塁で使ったブレイザー監督でしたが、不振でともに退団。継いだ中西監督の下で二塁のレギュラーを取り、新人王も獲得しました。

岡田
やれる自信はあったからね。ただキャンプのときにはポジションを取るのが大変やなと思ったし、三塁はカケ(掛布雅之)さん、二塁もヒルトンだったんで、外野の練習の方が多くやっとったよ。

2年目に全試合出場、3年目は打率3割を打ち、6年目の85年に優勝。4月17日の巨人戦で伝説のバックスクリーン3連発の3発目を打ちました。前の2人が打って甲子園全体が盛り上がっての打席でした。

岡田
そういう状況って落ち着かない。カケさんも言ってたけど、バースが打った後の初球はほとんど見送ってたって。僕もそう。そのときも初球は打たんかった。自分の世界に入るには、前の打者の雰囲気を断ち切りたかったから。
スコア

一発は狙ってたんですか。

岡田
狙ってない。狙ってたらもっと引っ張ってたと思うよ。浜風がいまよりも強かったんで、狙うんだったら左方向しかない。槙原(寛己)は前の左2人はストレートだったから、右打者にはスライダーしかないと思って、その球(2球目)を打ちにいった。

3者連続は最高の気分だったでしょう。

岡田
3連発というより、その年の第1号だったんで、そっちの方を喜んどったよね。

その年は21年ぶりの優勝と初の日本一の美酒を味わいました。

岡田
そうやね。優勝したから後付けで3連発も伝説として語られるようになったし、優勝してなかったら、あまり言われてないかも分からんしね。しかし、(年間通して)よく打ったなあという感じやったよ。

その後の阪神は低迷期に入りました。

岡田
ピッチャー陣がそんなに良くなかったから、常勝チームになっていく感覚はなかったね。バッターもカケさんが骨折したり、バースもいなくなる。3年ぐらいでガラッと変わってしまったからね。

岡田さんも93年限りで阪神を自由契約になり、オリックスに移籍しました。でも、その後の野球人生の中でパ・リーグも経験したのは大きかったのではないですか。

岡田
阪神での終わり方がちょっと中途半端やったけど、仰木(彬)さんが声を掛けてくれた。現役最後の95年は阪神大震災の年で優勝できたし、オリックスを経験したことで指導者になってからの視野も広がったと思いますよ。

両リーグの監督を務め、交流戦も戦っていますが、セ、パの違いは何でしょうか。

岡田
パ・リーグは強い! 違いは力強さやね。パの方にドラフトでいい選手が行っていることもあるけど、いいところをどんどん伸ばしていく感じがあるよね。いまはパもお客さんがいっぱい入ってるけど、一昔前までは注目度も低かった。そういう意味ではノンプレッシャーで生き生きプレーできていた。それがチームに浸透している感じがするよね。

リーグでもチーム作りに違いがあるのですかね。「野球つく」でもユーザーが個性溢れるチーム作りをしていますが、今度、レジェンドカードとして岡田さんに登場していただきます。すでに「バース」、「掛布雅之」のレジェンドカードがありますので、これで3人が揃います。

岡田
「野球つく」を見ましたが、ゲームがすごく進歩していてビックリしたですわ。僕らの頃は野球盤の世界やったからね。今度、レジェンドとして登場して、あの3連発をまた思い出してもらえればいいですよね。
岡田 彰布
岡田 彰布(おかだ・あきのぶ)
1957年11月25日、大阪府大阪市出身。北陽高から早大を経て、80年にドラフト1位で阪神に入団。1年目にオールスターでMVPを獲得。その年は打率.290、18本塁打で新人王にも輝いた。優勝した85年は打率.342、35本塁打の活躍を見せた。94年にオリックスに移籍。95年限りで引退。通算成績は1639試合、1520安打、247本塁打、836打点、打率.277。04年から5年間阪神の監督を務め05年にリーグ優勝。10年から3年間オリックスの監督も務めた。