SEGA

『野球つく!!』

大人になった野球少年たちに贈る

スペシャルインタビュー

奪三振日本記録保持者 野田 浩司

千葉ロッテマリーンズの日本一で幕を閉じた2010年のプロ野球。そのロッテの本拠地・千葉マリンスタジアムで日本記録を打ち立てた野田浩司氏が、この「プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2」の世界に颯爽と登場する。〝魔球〟フォークボールを武器に、敵地の風までをも味方につけて奪三振ショーを演じた野田氏。現役当時の貴重なエピソードをうかがった。

阪神の1位指名は想定外。驚きのほうが強くて、あれから人生が180度変わりました―――

このスカイマークスタジアムのマウンドに立つのも久しぶりなのではありませんか?

野田
ホームまで遠く感じますね(笑)。いまもOBクラブなどでマウンドに立つことはあるのですが、本当に随分と遠く感じますよ。

そして今回は野田さんのお店「まる九」で野球つくをお楽しみいただきます。ところでお店の名前の由来なのですが……。

野田
僕は熊本出身ですからね。このお店では九州産の素材を使っているので、「まるごと九州」で「まる九」。おかげさまで遠くから来てくださるファンの方もいるんですよ。

野球ファン必見ですね! さて、野田さんはどんなチームをつくりたいですか?

野田
現在のプロ野球は好打者が多いので、いい投手をそろえないと太刀打ちできません。僕はスピードがあるより、緩急が使える投手が好きなんです。ホークスの杉内とかね。でもこの投手ボックスを買っちゃうと、ポイントがなくなっちゃうなぁ。

ヒットを打つと何ポイントというように、試合を進めるごとに増えていきます

野田
そうやってコツコツ強化していくわけですね。野球好きならハマるというのが分かりますよ。おっ、この選手は以前、ウチのお店に来てくれましたよ(笑)。でも、矢印が下を向いているのが気になるなぁ。

これは選手の調子を表します。上を向いていれば、力以上の結果を残しやすいなど、いろいろ細かく設定されています。

野田
奥が深いわけですね。ではこれから、子供たちとチームを強くしていきますよ。

さて、野田さんは阪神にドラフト1位指名され、88年に入団しました。

野田
自分では一番誘ってくれていたヤクルトに行くものだと思っていました。家族には話していたらしいんですけど、僕は阪神の方とお会いしてませんでしたから。だから驚きのほうが強かったですよ。まぁここから、人生が180度変わりました(笑)。また別の自分がいるような、変な気分でしたね。

その1年目から先発、リリーフとフル回転しました。

野田
いろんな勉強ができましたよ。ただそれでも一軍の投手としては、10勝しないとっていう思いもあった。3年目に11勝しましたが、救援登板で追いつかれ、その後に勝ち越すという内容的に悪い白星もあったんです。だから4年目以降ですね、本当の意味でのプロの先発投手になれたのは。ただ、あの時期はチーム内にもどこか負け慣れといいますか、弱いのが当たり前という意識があったと思います。厳しい阪神ファンですが、当時はそのファンすら離れかけていたんです。

ただこの時代に、野田さんの投手としての形が出来上がりました。

野田
フォークが良くなり、カウントが取れるようになったんです。2年目にドジャースのコーチが来て、それまで抜くように投げていましたが、叩き付けるようにと指導されました。回転させないボールですが、逆回転させるようなイメージで投げればいい。抜く感覚では、すっぽ抜けますからね。

あとは大石清コーチの存在でしょう。

野田
熱いし、とにかく厳しいコーチでした。私生活から歩き方まで厳しく指導されましたよ(笑)。一時期、僕も衝突した時期があったのですが、自分の恩師は誰かと聞かれれば、やはり大石さんなんですよね。

しかし、まさかのトレードで93年からオリックスへ。阪神ファンにとってはいまなお、痛恨のトレード劇と言われています。

野田
現役を続けている間は、僕もずっと言われ続けましたよ、「なんでや」って(笑)。92年の春先は二軍にいたんですが、復帰後は月間MVPになったりした。チームも優勝争いをしただけに、年末になってのトレードは寝耳に水でしたね。最初は断ろうかとも思ったんですけど、最終的にはしゃあないなと。

するといきなり17勝で最多勝です。

野田
あのまま阪神にいたら、あそこまで勝てなかったと思います。同じ兵庫のチームですけど家も引っ越しましたし、すべて気持ちを切り替えた。オリックスは投手を甘やかさず、簡単には代えませんでしたね。移籍初勝利を挙げた近鉄戦(4月21日)も、序盤に4本塁打を浴びたんです。でもDHだから投手に代打がない。「代えないから自分でどうすればやっていけるか考えろ」と叱られまして、それでヤケになって投げたら最終的に15奪三振。あそこからですよ、勝てるように、そして三振が取れるようになったのは。

「仰木監督時代のオリックスは本当に楽しかった。早くシーズン開幕しないかなっていつも思っていました」―――

奪三振が野田さんの代名詞になり、94年にはゲーム17奪三振のタイ記録、翌年4月21日のロッテ戦では、19奪三振の新記録です。

野田
当時は追い込んだら三振を狙っていましたが、特に千葉の試合は全部がかみ合っていましたね。身体も軽いし、リリーバーたちに「今日は準備しなくていいぞ」って言ったぐらい。その前の登板で打たれていたので名誉挽回という気持ちの充実もあったし、後はやはり風。風速8メートルでしたが、ホームからのはね返りはもっと強かった。記録を作るという思いはなかったけれど、三振の数を数えながら投げていたのは確かです。ただ……。

白星がつきませんでした。

野田
9回にセンターに打たれ、田口壮が飛びついたんですけど、一歩及ばずスルーしてしまった。だから新記録達成よりも、勝てなかったことが悔しくて、夜のスポーツニュースの出演も断りましたよ。ただ、記者会見はしたんです。だから遅れて宿舎に戻ったんですけど、泊まっていた階にエレベーターが着いたら、そこに田口が正座していた。「野田さん、スミマセンでした」って。マジメでいい男ですからね。でも普段から、ファインプレーでたくさん助けられてるわけですし「そんなこと言うなよ」ってね。

いいエピソードですね。オリックスが強かった理由がうかがえますよ。

野田
仰木彬監督の時代というのは、本当に楽しかった。大人の集団でしたから、ある意味では何でもあり。だから早くシーズン開幕しないかなっていつも思っていましたよ。

95年は阪神・淡路大震災もありましたが、まさにオリックスの「がんばろう神戸」で神戸の街全体が一つになりました。

野田
それまで西武には負けていたのに、あの年は序盤から勝っていたので、手応えはありました。震災は自主トレ時期でしたから、僕も神戸にいたんですけど、もうオリックスと阪神は今季は野球ができないと思うほどの大きな被害でした。そんな大変な年でしたが、神戸の皆さんがたくさん球場に来てくれた。だから何としても優勝するんだっていう強い気持ちを、みんなが持っていましたよ。

最後に、野田投手を再現するにあたり、特にこだわりたい部分はありますか?

野田
僕は外国人打者と相性が良かったんです。一番いいとき、外国人の被打率が1割なかった年があったほどで。ブライアント、フランコ、マルティネス……打たれる気すらしませんでしたからね。だからカブレラと対戦していたらどうだったか。三振か一発かの対戦はしてみたかった。

往年の助っ人選手も登場しますし、外国人キラーになりそうですね。

野田
はい、楽しみにしています。

取材協力:オリックス野球クラブ株式会社、まる九

野田 浩司
野田 浩司(のだ・こうじ)
1968年2月9日、熊本県球磨郡多良木町出身。
多良木高、九州産交を経て88年ドラフト1位で阪神入り。1年目から先発、リリーフでフル回転をし、3年目の90年に初の2ケタ11勝。93年に松永浩美との交換トレードでオリックスへ移籍すると、いきなりその年に17勝で最多勝獲得。94年にプロ野球タイのゲーム17奪三振を記録すると、翌年は19奪三振の新記録を更新した。95年からのオリックス2連覇にエースとして大きく貢献し、00年限りで現役引退。13年間の通算成績は316試合に登板し89勝87敗9セーブ、防御率3.50。