SEGA

『野球つく!!』

大人になった野球少年たちに贈る

スペシャルインタビュー

小さな大打者 若松 勉

球界はオフシーズンだが、「プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2」の世界はますます熱い! Winter Updateでデータも更新され、嬉しい新機能もより充実した。今回、ここに登場するのは、09年に野球殿堂入りを果たした若松勉氏。現役時代はヒットを面白いように量産し、監督としてもヤクルトを日本一に導いた若松氏が、現役としてコンビを組みたいと思う選手とは?

3年間プロでやって、ダメなら北海道へ帰ろう。そう決意して上京した―――

野球殿堂入り、おめでとうございます!

若松
ありがとうございます。野球体育博物館には以前、幾度か来たことがありますが、自分のレリーフが掲額されてからは初めて。なんだか照れくさいですね(笑)。自分が殿堂入りなんて、夢にも思っていませんでした。入団する時は、プロで3年間やってダメなら、北海道へ帰ろうって思っていたし。

そうなのですか? そのへんのお話は後ほどじっくりうかがうとして、まずはひと味違う野球の世界をお楽しみいただきたいと思います。若松さんはゲームをされることは?

若松
娘はパソコンでいろいろしているようですけど、私はなかなか(笑)。でも、選手たちは本当に好きですよ。キャンプなんて、夜間練習が終わって寝るまでの間、部屋に集まってワイワイ騒いでいますから。神宮のクラブハウスでも、よくやっていましたね。

そうでしたか。ありがたい限りです。

若松
しかし、難しいゲームですね。このメンバーで今年のヤクルトに勝つのは……。

最初はなかなか強いチームはつくれませんが、進めていくうちにだんだんと選手も集まり、強くなっていきます。

若松
なるほど、簡単には勝てないのですね。でも意外といい勝負……(接戦の末、青木宣親の一打でヤクルトが勝利し)やはり青木はすごいということです(笑)。

惜しかったです。さて、先ほどプロで3年やってダメなら、というお話でしたが。

若松
社会人時代、電電北海道では都市対抗に出られず、拓銀と大昭和製紙の補強として4回出たんですよ。だけど5年も社会人にいたので、プロ入りはないと思っていました。

では指名されたと知ったのは?

若松
スカウトの方から指名の連絡がありまして。でもその声が、チームの監督にそっくりだったんです。だから「監督、何を冗談言ってるのですか」って信じなかった(笑)。

プロ入りを決断するまでは?

若松
ずっとお断りしていました。心のどこかに行きたいという思いも芽生えていたのですが、一度決めたことなのでお会いすることもせず。でも、コーチの中西太さんが札幌まで来られ、親父や恩師に「小柄でも下半身がしっかりしていればやれる」と言われた。それを聞いて、悩み抜いた末に、女房に3年の時間をくれ……と。それで上京したんです。

しかし、1年目から規定打席未満とはいえ、打率3割クリアです。

若松
三原脩監督のお陰ですよ。左投手が先発だとベンチで、右になったら出るという起用法。翌年の首位打者もそう。シーズン終盤までいい数字だったので、左の好投手が出てくると外されたんです。だから打数、そんなに多くないでしょう(365打数)。監督が、初のタイトルを獲らせてくれたんです。

それでも3年目は、ほぼフル稼動です。

若松
3年目を終えて、ようやく「この先もプロでやっていけるかな……」という気持ちでしたよ。自分の打撃フォームも随分、固まりましたしね。まぁそれまで生活は大変でした。用具代も負担になったし、赤字です。

あれだけ活躍してもですか?

若松
2年目に首位打者を獲っても、給料はそんなに上がりませんでしたから(笑)。当時は3年、続けていい成績を残さないと認められなかった。チームも弱かったしね。

Bクラスの常連だったヤクルトの転機は、77年の広岡達朗さんの監督昇格でしょうか。

若松
75年に大杉勝男さんが日本ハムから移籍して、翌年はマニエルも入団と、だんだん戦力が整ってきたんです。でも、最後まで優勝できるとは思っていませんでしたよ。巨人に抜かれるんじゃないかと、半信半疑で。

あれだけ勢いがあったのにですか?

若松
それまで優勝争いの経験がないんですから。でも、広岡さんもミーティングで「巨人には絶対に負けない」と言い続けた。そう言われると、選手もその気になる(笑)。

実際、その通りになりましたが、その一方で広岡監督の管理は厳しかったのでは?

若松
実はオープン戦の時期、足を捻挫して、練習も軽めにしていたんです。それで移動のバスが休憩した際に、みんなは缶ジュースを買う中で、私は缶ビールを飲みまして……そのほうがスッキリするじゃないですか(笑)。でも、その姿をコーチに見られたんです。

ばれてしまった?

若松
翌日、軽めの練習をしていたら、広岡さんが「お前はそんな状態なのにビールなんて飲んでいていいのか!?」と。それでも黙ってティーをやっていたんですが、今度は「お前は他球団ならレギュラーにはなれない」と言われましてね。ムカッとして、この監督にだけは絶対に文句を言わせないと、捻挫なんてお構いなしにプレーしたんです。そうしたら、逆に足がどんどん強くなった(笑)。

見返す思いが一転……ですね。

若松
すると新聞などで「若松はよくやっている」とコメントしていて。本人には言わないんですよ(笑)。

褒めるのは間接的に(笑)。

若松
広岡さんはチームリーダーをつくりたかったんでしょうね。だから自分には細かく言ったのだと思うんです。実際、西武でも田淵幸一さんがいろいろ言われましたが、それを見て「ああ、オレと同じことをされているな」と思いましたからね。

気持ちが分かると、違いますよね。

若松
だからそれからは、すごく広岡さんにも良くしてもらいましたし、いろんなことを学びました。大きな影響を受けましたよ。

誰をトレードで獲ってほしいとは頼まなかった。私は誰も、チームから出したくはなかったんです―――

しかし、若松さんが実際に指揮を執られた時は、まったくタイプが違うような。

若松
それはほら……前任者が野村克也監督だから(笑)。自分があのチームをまとめていけるかも心配だったし。だから波に逆らってはダメだと思ったんです。野村さんが育てた選手を、まずは上手く使おう。そうしながら、若い選手も出していこうと。

「野球つく」では、ユーザー間でトレードを行うこともできます。監督時代、トレードの希望などは球団に出していたのですか?

若松
私から誰を獲ってほしいと頼むことはありませんでした。球団主導で決まったトレードはありましたが、私は自軍から選手を出したくなかったんですよ。新人に関しては、このポジションのこんなタイプの選手という希望を球団に聞いてもらえましたね。

選手の起用についてはいかがでした?

若松
基本的に担当コーチに任せました。コーチの人選も聞いてもらえたので、信頼していましたからね。だから私は、全体を見るとともに、ポイント、ポイントでひとこと言うだけにしていたんです。選手起用も一度オーダーを決めたら、大きく崩さないタイプでしたし。ただ、代打など打者の起用は、意外と大胆だったかもしれません。

さて、この「野球つく」に若松選手として復帰していただきたいのですが、再現するにあたり、希望はありますか?

若松
現役時代、実はもっと走りたかったんですよ。足には自信がありましたから。ただ、後ろにいい選手が控えていたので、サインが出なかったんです。打順は三番を打ちたい。できればラミレスと三・四番を組みたいですね。頼れる四番だし、ラミちゃんなら一球待って、走らせてくれそうだしね(笑)。
若松 勉
若松 勉(わかまつ・つとむ)
1947年4月17日、北海道出身。北海高、電電北海道を経て、71年ドラフト3位でヤクルト入り。1年目に規定打席不足ながら3割を打つと、翌年は一気に首位打者。以降、打撃上位の常連となり、球界きっての安打製造機として名を馳せる。78年、チーム悲願の初優勝に大きく貢献し、MVPにも輝いた。89年限りで現役引退。2062試合で打率.319、2173安打、220本塁打、884打点。93年にヤクルトのコーチに就任。二軍監督を経て99年に監督となり、01年にはチームをリーグ制覇、日本一へと導いた。09年、野球殿堂入り。