SEGA

野球つく!!

大人になった野球少年たちに贈る

スペシャルインタビュー

次々と最年長記録を塗り替えた中日の左腕 山本 昌

中日一筋、50歳までプレーし通算219勝をマークした山本昌氏がセガゲームスの「野球つく!!」に登場。高校時代の将来の夢は社会科教師だったが、ドラフト指名されプロ野球の道に進んだ山本昌氏の32年間を語っていただいた。

取材協力:名古屋観光ホテル/取材・構成:永山智浩/写真:川本 学

いいペースで休まず走ってこられた32年間だった

山本昌

「野球つく!!」をご覧いただきましたが、いかがでした。

山本昌
 以前「プロ野球チームもつくろう!」(セガサターン98年)にはまりました。あのころは選手もかわいらしいイラストでしたが、いまはリアリティもあり進化していますね。「野球つく!!」は終わりがないのもいいですよね。いまのプロ野球と並行して進んでいけるので、常にドリームチームが持てるのが面白いんですよ。

やはりオールスターのようなチームを作りたいですか。

山本昌
 夢があっていいですよね。投手力があり負けづらいチームを作りたいですね。

32年間投手として活躍しましたが、高校時代、プロ野球選手になろうと思ってましたか。

山本昌
 なれるとは思ってなかったです。小学生のとき、作文で「プロ野球選手になる」とは書きましたけど。飛び抜けていい時期もないし、甲子園に行っているわけでもない。神奈川県でもベスト8が最高ですし。

高校3年のとき、神奈川県選抜に選ばれ好投しスカウトが注目したということでしたが。

山本昌
 名前が挙がったという話ですが、野球部長のところには来ていたらしく、私のところには来てなかったですね。
山本昌

いまは「プロ志望届」を出すルールになっていますが、当時だったら出してました?

山本昌
 まったく出してないですね。大学の経済学部も決まっていたし、4年間野球をやって、そのあとは社会科の教師になるのが夢だったので。でも「プロ志望届」がなかったから「ドラマ」も生まれるんですよね。

そのドラマが中日から5位で指名されたことですね。

山本昌
 うれしかったですよ。まずセ・リーグで、でも、なんで大洋じゃないんだと思いましたね。可能性があるなら地元の大洋だと思ってましたから。うれしいと思いながら、その後は大学も決まっているし「どうしよう」ですよ。周りも大騒ぎで、帰りの電車の中で友だちには「行かない」と言ったのをはっきり覚えてます。
山本昌

この年は山本昌さんの高校世代が数多く上位でも指名されましたが、プロでの最多勝は山本昌さんの219勝で、次が星野伸之さん(阪急ドラフト5位)の176勝です。

山本昌
 5位の当たり年ですよ(笑)。黄金世代と言われた年代ですからね。昭和40年生まれは昭和の中では一番レベルが高かったと思うぐらいでした。

そんなライバルたちは早い時期にプロ初勝利をどんどん挙げていって、焦りはなかったですか。

山本昌
 いや、別世界の人に見えてました。4年目まで0勝で、当時はプロで全然通用しない投手でしたから。渡辺久信が4年で30勝、私が初勝利を挙げた88年で45勝。星野も35勝。それだけの差をつけられてのスタートですもんね。普通3、4年やったら、それ以上の変わり目はないんですけど。星野(仙一)監督にアメリカ留学をさせてもらって変わりましたね。

チームの春季キャンプがベロビーチ、そのまま現地に残ったんですよね。

山本昌
 当時は日本とアメリカの野球は別世界。言葉も分からないし不安でした。5人残ったんですが一軍半ぐらいの選手で、いなくても今季の中日は大丈夫という選手で、それを考えたら「クソッ」と思いました。
山本昌

そこでスクリューボールを覚えたんですよね。すんなり投げられたということですが。

山本昌
 簡単に覚えましたね。フォーム的に合っていたと思います。あのころは持っている球種を磨くという時代で、新しい球にチャレンジすることはあまりなかったですね。

マイナー・リーグで活躍し、夏場に呼び戻され、いきなり5連勝しましたね。

山本昌
 そうですね。その中で一番感激したのはプロ初勝利(88年8月30日の広島戦、リリーフ)。絶対に勝てないと思っていたので、夢のような一晩を過ごした記憶があります。

優勝争いの中、救世主、秘密兵器などと新聞に書かれていました。

山本昌
 必死にやった1カ月半でしたね。アメリカの打者は振り回すので空振りを取っていたけど、日本の打者は当ててくるよなと思ったんです。でも、思った以上にスクリューが通用しましたね。それからアメリカでたくさん投げさせてもらったおかげで、ほかの部分も成長していたんですね。7試合に投げて、48回2/3で防御率0・55ですから、いま思うとたいしたもんだな、と。

西武との日本シリーズでも第3戦に先発し、4回までノーヒットピッチングでした。

山本昌
 結局負けましたけど、夢のようなシーズンでした。

その経験から90年代に入ると先発の軸、エースとして活躍します。

山本昌
 絶対的なエースではないですが、ケガも少なかったのでエース格としては投げられましたね。ほかにも良い投手がいたので楽だったですよ。いまの中日の状態を見ているとエースのほかに、私のようなケガをせず規定投球回に到達し10勝ぐらいできるのがいないんですよ。
山本昌

山本昌さんも最多勝3回ですから、立派なエースですよ。

山本昌
 エースではなく矢面に立たずに最多勝を獲ったという感じではありますね。最初の最多勝(93年)のときには今中(慎二)がいましたし。こんなに長くやっている割には開幕投手が少ないんですよ(4度)。今中、川上憲伸、野口茂樹、チェン、吉見一起らがエースで、二番手の意地でエースと同等にやろうと頑張ってました。

3度の最多勝のときはいずれも優勝はできなかったですね。97年は最下位での最多勝の珍記録。

山本昌
 個人タイトルは獲りたいと思っていましたけど、一番は優勝することですからね。93年は17勝5敗、94年は19勝8敗で最後まで優勝は争いましたが、もっとできたかなと思いますね。97年は8月の誕生日(11日)のときには15勝(3敗)していて、20勝は絶対にいくなと思ったんですが、最後に負けが込んで18勝止まりでしたね。でも、僕のときはよく打ってくれるなと思ったんですよ。最下位なのに最多勝を獲らせてもらって、このころから援護点がなくてもまったく気にしなくなりましたね。

プロ初勝利の日、夢のような一晩を過ごした

99年は8勝を挙げ11年ぶりのリーグ優勝を果たしました。

山本昌
 8勝ですが、防御率は悪くないですよ(リーグ3位=2・96)。この年はチームに貢献したなと思いますね。投げた試合は勝ちゲームが多かったし、チームが勝てばいいという気持ちでしたね。
山本昌

88年と違って、この年は優勝の味を十分にかみしめたのではないですか。

山本昌
 そうですね。開幕からチームが11連勝して、一度も首位を明け渡すことなく優勝しましたからね。一番覚えているのは天王山と言われたナゴヤドームの巨人戦(9月16日)にガルベスと投げ合って勝ったことですね。あの日は朝から記憶がなくて気づいたらナゴヤドームにいたんですよ。この試合は大事だということで気合いが入り過ぎてたんですかね。

この年は34歳でしたが、40歳までやるといったような具体的な目標はあったのですか。

山本昌
 まったくなかったです。この歳で2年間成績が残せなかったらダメということしか頭になかったですね。

その後、最年長記録をどんどん塗り替えていきます。06年9月16日の阪神戦では41歳でノーヒットノーランも達成しました。

山本昌
山本昌
 首位攻防戦で、勝たなければというときだったので、終わった瞬間はノーヒットノーランよりも天王山を連勝したという気持ちが大きかったですね。事の重大さは後日に感じて、すごいなと思いましたよ。

最年長に価値がありますよね。

山本昌
 その年は11勝してますし、若い投手とそん色なかったですから、そのうち誰かが抜くでしょうと思ってました。でも、いまは意外と抜きづらい記録なのかなと感じています。

大変な記録ですよ。

山本昌
 50歳までやったときも、「あっ、できちゃった」ぐらいに感じましたが、いま思うとすごいことをやったんだなと。山を降りてみて、「あんなに高いところにいたんだ」といった感じですね。

いろいろな最年長記録はモチベーションになっていましたか。

山本昌
 一番は応援してくれるファンの方が、「励みにしてます」「元気をもらっています」と言ってくれて、少しでも長くそう思っていただこうという気持ちでしたね。球団も契約してくれましたし、しっかりと頑張らなければという気持ちになりました。
山本昌

そして中日史上最多の219勝もマークしました。

山本昌
 杉下(茂=211勝)さんは10年で達成されているので、比べものにはならないんですけれども、自分なりにすごいことをやったんだなと思います。若いころから突出したときがなかったので、いつも自信がないんですよね。自信がないのを補うために練習したり、開き直ろうとしたり、その繰り返しでやってこられたのかな、と。星野さんという恐い師匠の下でやっていたので油断する暇がなかった。そういうところが良かったのかな。

どこかで抜いていたら50歳の現役はなかったかもしれませんね。

山本昌
 全力で突っ走ったら50歳まではいかなかったでしょうが、うまく走ってきたのかなというのはありますね。いいペースで休まず走ってこられた32年間だったと思います。
山本昌
やまもと・まさ(山本昌広=やまもと・まさひろ)
1965年8月11日、神奈川県茅ヶ崎市出身。日大藤沢高からドラフト5位で84年に中日に入団。5年目の88年にプロ初勝利をマーク。最多勝は3度(93、94、97年)、93年は最優秀防御率、97年は最多奪三振も獲得し、94年は沢村賞も受賞。06年に史上最年長のノーヒットノーランを記録すると08年には通算200勝を達成。14年は49歳25日で勝利、15年は50歳57日で登板し、いずれも最年長記録を更新。15年限りで引退。通算成績は、登板581、219勝165敗5セーブ、奪三振2310、防御率3.45。