SEGA

野球つく!!

大人になった野球少年たちに贈る

スペシャルインタビュー

攻守走三拍子そろったヤクルトの中心バッター 岩村 明憲

ヤクルトでは不動の三塁手として活躍した岩村明憲氏がセガゲームスの「野球つく!!」に登場。 現在、プロ野球独立リーグ・福島ホープスの代表兼監督兼選手の岩村氏。 ヤクルト時代のバッティング、メジャーへの想いなど語っていただいた。

取材・構成:永山智浩/写真:阿部卓功

04年からは本塁打の打ち損ないがヒットという考え

岩村明憲

「野球つく!!」を見ていただきましたが、岩村さんは子どものころからゲームをやっていたそうですね。

岩村
 子どものころ野球ゲームをやっていて、将来プロになってゲームに名前が出るというのもひとつの夢でした。僕は2年目に初めて一軍に上がったんですが、一塁に小早川(毅彦)さん、二塁に辻(発彦)さんがいて、自分からすればゲームで使っていた人たちと一緒にプレーしてるという感覚でしたね。

「野球つく!!」は独立リーグに近い

「野球つく!!」は下のレベルからチームを作り上げていくゲームですが、現在、岩村さんはBCリーグの福島ホープスの代表、監督、選手をやっていて、チーム作りを現実に経験されてますよね。

岩村
 「野球つく!!」の説明を聞いたとき、まさに独立リーグに近いなと感じましたね。独立リーグの考え方としては、NPBの球団がないところにチームを作るというのがあり、福島ホープスは15年にできたチーム。福島県にできた理由は東日本大震災があったからですね。地域貢献活動を行い地域を活性化していくことも目的にしていて、「野球つく!!」の街作りに似ている部分もありますね。

運営面での苦労もありますよね。

岩村
 選手の給料も管理していますし、人件費、球場使用料、移動時のバスの経費なども見ています。持ち球場がなく、高校野球があるから使用できないなど、やり繰りは大変ですよね。でも上を目指している選手たちの成長を見るのは子どもを見ている感じですし、僕も勉強になります。
岩村明憲

運営から監督まで「野球つく!!」を実戦している感じですね。岩村さんのプロの第一歩は、96年のドラフトでヤクルトに2位指名を受け、兄の敬士さんも近鉄に7位指名。兄弟そろってのプロ入りでした。

岩村
 史上2組目でしたね。3つ上なので、通常であれば社会人、高校でのドラフトですが、兄は日体大に進学して1年でやめてしまったんです。でも、神宮では僕より早く本塁打を打っているんですよ。

2年目にプロ初出場を果たし、4年目の00年にはレギュラーをつかみました。このころ「3割、20本、20盗塁」という目標を掲げていたと思いますが。

岩村
 そうですね。

トリプルスリーより控えめですね。

岩村
 30本塁打はちょっと打てないだろうなと思ったし、30盗塁も無理だろうなと。

盗塁は打順が大きく影響しますからね。

岩村
 01年に優勝したとき、クリーンアップが三番・稲葉(篤紀)さん、四番・ペタジーニ、五番・古田(敦也)さん。六、七番で僕と新加入のラミレスというオーダーが多かった。僕の後ろを打つラミレスに「あまり走るな」と言われたことがあったんですよ。それに対して「僕が二塁に走ればシングルヒットでいいでしょう」というと、ラミレスも「長打を打つから大丈夫」と言い返してくるんですよ。「じゃあ僕のことを気にするな」といったら、「いや、構えたときに見えるんだ」と。多分、一塁で走る構えを見せると集中力がそがれるんだなと思ったので走るのは止めました(笑)。04年は稲葉さんが日本ハム、ペタジーニが巨人に移籍していたので、僕とラミレスが三、四番になったんですが、このときも走るのは止めてましたね(笑)。

その04年は打率・300、本塁打は44本とすごい成績でした。

岩村
 03年のキャンプのときに1300㌘のマスコットバットをバッティング練習でずっと使っていたんですよ。そのお陰で振る力がついた。でも、開幕戦で手首を痛めてしまった(右手三角繊維軟骨複合体水平断裂)。
岩村明憲

そのバットの影響ですかね。

岩村
 それが原因かは分からないんですけど、みんながそう言うのでそうなのかなと。でも、それをやったからこそヘッドスピードがすごく上がり、ボールを打ち上げるコツもつかみましたからね。ただ、01、02年と成績を残してきての3年目。自分としても悔しいケガでしたね。回すタイプのドアノブも回せない状況ですからね。リハビリは箸や鉛筆を持つことから始めるぐらいの症状でした。

かなり厳しいものでしたね。

岩村
 後半戦の初戦に復帰したんですけど、甲子園の阪神戦に(7月21日)井川(慶)から本塁打を放って、ベンチの中で涙が出そうになりました。ヒットは打てても本塁打が打てるかどうか分からなかったですからね。でも、ケガから学んだことも多く、04年の44本につながったとも思います。
岩村明憲

04年から44、30、32本塁打。スラッガーの成績ですね。

岩村
 考え方もありましたよね。20本台だったころはヒットの延長が本塁打と考えてましたが、04年からは本塁打の打ち損ないがヒットという考えに変わっていましたからね。すべての球を本塁打にしてやろうと思っていました。いろいろなコースで打ち方を変えて狙っていました。多くのミスがありましたが、本塁打狙いの考え方が大きかったと思います。

いろいろなコースに対しての本塁打の打ち方の引き出しが多くあったということですね。

岩村
 はい。それを教えてもらったのが師匠でもある中西太さんですね。二人三脚で指導を受けましたから。それに若松(勉)監督、八重樫(幸雄)コーチもいたのですが、2人ともに中西道場の門下生。なので言い方は違っても、方向性は一緒なので、僕はやりやすかったですね。何人ものコーチに別のことを言われると、どうしていいか分からず多分崩れていきますよね。

そういうことで消えていった選手も多数いるでしょうね。

岩村
 いますよね。一貫性を持った人たちに教えてもらうのがいいでしょうね。

本塁打を狙うようになったのはクリーンアップを任されたからですか。

岩村
 そういうわけではないですね。自分はもともと三番を打ちたいと思っていたし、四番向きではない。四番は外国人が打つもんだと勝手に思っていました。

日本での四番は通算2試合ですね。

岩村
 楽天時代の11年ですね。
岩村明憲

07年にはデビルレイズ(現・レイズ)に移籍します。メジャーを目指したのはいつごろですか。

岩村
 高校のときに日本代表でフィリピンに行ったんですね。マニラの球場で場外本塁打を打ったんですが、場外を打つと壁に名前を書いてくれるんですよ。その上にあったのがベーブ・ルース(ヤンキース=34年)だったんですよ。

それはすごいですね。

岩村
 その試合にはメジャーのスカウトも何人か来ていたらしく、メジャーの意識の原点はそこですかね。もう一つ、自分の中で自信になったのは02、04年の日米野球ですね。02年のときにロベルト・アロマ-(当時メッツ)と食事に行く機会があって、「将来的にメジャーに行ってやりたいと思うんだけど通用すると思う?」と聞いてみたんですよ。彼は「いまでも大丈夫じゃないか」と言ってくれて、それが夢から現実味を帯びた言葉になりましたね。オフの契約更改のときに、球団社長に「いますぐではないが将来的にはメジャーに行きたい夢があるので検討してもらえませんか」と話すと、「3年続けて誰もが認める成績を残したら考えてやる」と言ってもらいました。でも翌年ケガをして心が折れましたね。
岩村明憲

でも04年から3年間の成績を見たら、メジャーという明確な目標に向かっているのが分かりますね。

岩村
 05年に社長とは2カ月に1回ぐらいのペースで食事をして、メジャーに行きたいという思いの丈を何度も話したら、もう行ってもいいんじゃないかと言われたんです。でも8月あたりに若松監督がシーズン限りで勇退して監督が代わるからメジャー行きにも待ったがかかった。

古田監督になるんですよね。

岩村
 投手の石井弘寿さんもメジャー行きを希望していたんですが、古田さんが「2人がいなくなったらヤクルトの魅力がなくなる」とストップをかけた。「お前がいないとチームにならない」とも言ってもらい、その言葉で残る覚悟、決心もできましたね。

06年も結果を残して、メジャーへ行ったわけですね。

岩村
 メジャーに行きたい選手はどんどん行かせた方がいいと思うんですよ。いまはアメリカから日本に来たがっている選手もいっぱいいるので、もっとうまく流通させたほうが日本球界にとっても、いいと思うんですけどね。
岩村明憲

日本は流出を抑えたい部分もありますよね。

岩村
 元ヤクルトのバーネットはヤクルトで6年間プレーして実績を作って、その後メジャーデビューを果たした。まさに逆輸入の形ですよね。そういうことがもっとあってもいいのかなと。アメリカの野球関係者は日本のプロ野球を「4A」と言っている人もいます。3Aより上でメジャーより下なんですよ。かといって「4A」でも素晴らしい選手はメジャーでも活躍できますからね。

メジャーでも活躍し、独立リーグで球団の運営も経験して、いろいろな角度から野球を見ていますよね。

岩村
 「野球つく!!」をどんどん野球ファンに知ってもらって、球団経営をしてほしいですね。
岩村明憲
いわむら・あきのり
1979年2月9日、愛媛県宇和島市出身。宇和島東高からドラフト2位で97年にヤクルトに入団。00年からレギュラーを獲得した。07年にメジャーへ移籍。レイズ、パイレーツ、アスレチックスでプレー。11年に楽天、13年は古巣ヤクルトに移籍した。15年はBCリーグ・福島ホープスの選手兼監督となり、11月に球団代表に就任。今季限りで現役引退を発表した。ベストナイン2回、ゴールデン・グラブ6回。NPB通算成績は、1194試合、1172安打、193本塁打、615打点、67盗塁、打率.290。