SEGA

野球つく!!

大人になった野球少年たちに贈る

スペシャルインタビュー

「横浜」一筋で通算172勝をマークした「ハマの番長」 三浦 大輔

「横浜」で25年間プレーしエースとして君臨した三浦大輔氏が、セガゲームスの「野球つく!!」に登場。初登板から98年の優勝、FA宣言など25年のプロ野球人生を語っていただいた。

取材協力:東京ドームホテル/取材・構成:永山智浩/写真:小形又男

優勝っていいもんだなと改めて感じました

「野球つく!!」をご覧いただきました。昔の野球ゲームとは違った感覚だと思いますがいかがでした。

三浦
 「すごい」の一言です。いろいろな選手の特徴が分かるのも素晴らしいですね。小さい頃から野球ゲームはやっていましたが、チーム名もなく守備も動かせないようなものでしたからね。その後、だんだん進化してきて、プロの実名が使われるようになった頃、自分がプロ野球に入団。自分の名前がゲームに出てきたのがすごくうれしかったですね。

三浦さんはどんなチーム編成が好みですか。

三浦
 オールスターですかね。どのチームの監督もオールスターのメンバーでペナントを戦えればなと思ってるでしょうね。

「野球つく!!」はチームの総コストに上限があるので、投手を最強コストにすると野手のコストを調整しなければならないんですよ。

三浦
 なるほど。

このインタビューに出ていただいた方は、投手力重視にする考え方の人が多いのですが。


三浦 大輔
三浦
 僕は投手ですから、いっぱい打ってくれて得点が多ければ多いほど楽に投げられるという考えですね。打てば試合に勝てるという感じです。でも総合的に言えば、投手がしっかり試合を作っていくのが一番なんでしょうね。

98年に日本一になったときは、マシンガン打線と言われた強力打線で心強かったと思います。

三浦
 それは心強かったですよ。初回に3、4点取られても6回ぐらいには逆転してくれてましたからね。あの時、権藤(博)監督によく言われたのが「逃げるな」ですよね。攻めていって打たれたときは何も言われなかったですが、気持ちが後ろ向きになって打たれてベンチに戻ったときは怒られました。野手にも「向かっていって打たれたときは、何とかしてやろうという気持ちになるけど、明らかに逃げ腰になって打たれたときはチームの士気が下がる」と言われましたね。野手は投手の背中を見てプレーしているんだなと思いました。

この年はマシンガン打線と抑えの大魔神(佐々木主浩)がかなりクローズアップされましたが、先発陣の安定感も抜群でしたよね。

三浦
 2ケタ勝利が野村(弘樹)さん(13勝)、斎藤隆さん(13勝)、僕(12勝)の3人。その前の年(2位)は、この3人と戸叶(尚)が全員10勝をマークしてました。

やはり充実期だったんですね。ところで三浦さんはプロ野球への憧れは持っていたのですか。

三浦
 小学校3年のときから野球チームに所属して、その頃はプロ野球選手は格好いいなと漠然と思っていましたね。高校2年の冬に進路希望を聞かれて「プロ野球選手になりたいです」と初めて口に出しました。大爆笑でしたけど。

でも、その夢が叶ったわけですよね。大洋に6位で指名されたときの気持ちは。

三浦
 うれしかったですよ。職員室に呼ばれ校長先生に「大洋に6位指名されました」と言われて、先生方の拍手で祝福されました。

三浦 大輔

この時のドラフトは奈良県のライバルだった天理高の谷口功一が巨人、松商学園高の上田佳範が日本ハム、東京学館浦安高の石井一久がヤクルトにドラフト1位。4位でオリックスがイチロー(愛工大名電高)、近鉄が中村紀洋(渋谷高)を指名しています。6位という順位は気にならなかったですか。

三浦
 順位なんて完全に気にしてないです。もうプロになれるんだということで、浮かれてましたね。

ドラフト6位以下で入団した高校生投手で通算100勝以上をマークしたのは柳田豊(西鉄8位・110勝)、工藤公康(西武6位・224勝)と三浦さんの3人しかいないんですよ。

三浦
 へえ、そうなんですか。入ったら順位は関係ないとは言われますが、上位の人の方が間違いなくチャンスは多いです。だから目立ってアピールしようとしてましたね。


勝利の瞬間はマウンドで迎えたい

1年目の名鑑を見ると「沢村賞を獲りたいと夢は大きい」と書かれているんですが。

三浦
 これは、当時の「月刊ホエールズ」で新人の履歴書のような企画があって、目標の欄があったんですよ。投手のすごい賞は沢村賞しか頭に浮かばず、どういう条件で獲れるのかも分かってなかったんですが、とりあえず書いたんですよ(笑)。

沢村賞は獲れませんでしたが、先発完投型の投手として成功しましたよね。

三浦
 1年通して先発ローテーションに入ることはもちろん、試合でも最後まで投げたい気持ちでしたね。佐々木さん、盛田(幸妃)さんのダブルストッパーのときでも、勝利の瞬間はマウンドで迎えたかったです。それが一番気持ちよかったんで。よく「6回まで」と言われたんですが、一人ぐらいは最後まで投げる先発がいてもいいだろうと思いました。

ルーキーイヤーはファームで6勝、最後の試合で早くも一軍初登板(92年10月7日、巨人戦=横浜)を果たしましたよね。

三浦
 9月ぐらいに一軍に上がったんですけど、なかなか登板機会がなかった。高卒ルーキーでしたからある程度ワンサイドゲームにならないと使ってもらえなかったんですよ。ブルペンでは「(味方の投手が)打たれろ、打たれろ」と思いながら投げてました(笑)。


三浦 大輔
そしてチームの最終戦、遠藤(一彦)さんの引退試合の三番手で初登板。緊張よりも「よっしゃー、やっと来たか」と投げられることがうれしかったですね。これがホエールズの最後の試合でしたしね。それに1年目で遠藤さん、2年目に斉藤(明夫)さんの引退試合を目の当たりにして、こういう選手になりたいなと思いました。

2年目には初勝利(9月4日、広島戦=北九州)も挙げました。

三浦
 これも思い出に残りますね。完封ペースで行って8回に代打の金本(知憲)さんに初球のカーブをホームランされ、「あー完封が……」と思ってスタンドを見てたのを覚えてます。でも一軍で勝てたということはうれしかったですね。

98年の日本一ですが、この年は充実感はありましたか。

三浦
  ありましたね。97年終盤にヤクルトと優勝争いをしていて、石井一久にノーヒットノーランされて勢いを止められ、今年はなんとかしようという状況でプレーしてましたし、選手個々が年齢的にも充実期でした。これからは横浜の時代だと思ったんですけどね。なかなかそうはいかなかったですね(笑)。

その後、05年は初のタイトルとなる最優秀防御率と最多奪三振に輝きました。

三浦
 開幕の中日戦、0対0の9回裏に三塁打を打たれて満塁策を取り、アレックスに満塁サヨナラ本塁打を打たれ、崩れ落ちそうになったけど、強がってベンチに戻ったのを覚えてますね。その悔しさを1年間持ち続けてやった年ですね。初タイトルはうれしかったですけど、98年のほうがやはり良かったですね。優勝っていいもんだなと改めて感じましたね。

この年から5年連続で投球回はチームトップだったのですが、裏を返せば、なかなかチームの若手が追い上げてこない。そんなジレンマはあったんですか。

三浦
 自分自身もエースと胸を張って言える成績ではなかったし、それでエースと言われてるようじゃダメだなと思っていました。5勝でチーム勝ち頭というのもありましたし、自分自身も悔しかったし、こんなチャンスなのに何をやってるんだと、若手に対して発信した時期もありました。

そんな中、08年のオフにはFA宣言し阪神からのオファーがありました。もともと阪神ファンでしたよね。

三浦
 親父が阪神ファンで甲子園にはよく見に行ってました。

その阪神からのオファーでかなり悩んだと聞きましたが。

三浦
 人生で一番悩んだんじゃないですかね。最終的に自分の野球人生はどうやったかなと考えたんですよ。少年野球も弱いチーム、高校のときも打倒・天理でやっていましたし、強いところを倒す野球人生なのかなと思ったんですよ。その年は阪神が2位でウチが最下位。2位から優勝するよりは、横浜を強くして優勝させるほうが、三浦大輔らしいなと思ったんですよ。ファンの方の熱烈な引き留めの声もありましたし、それで残留の決断をしました。

その阪神戦は通算46勝32敗と強かったですよね。

三浦
 よく言われるんですけど、特に阪神戦はこうすればいいというのはまったくなかったですね。甲子園の応援はプレッシャーじゃないの? と聞かれたんですが、僕は子どもの頃から甲子園で観戦してたし、応援歌も知ってましたから、それをマウンドで聞けるというのはすごくいいことでしたね(笑)。あとはマウンドでジェット風船が見られるんですよ。あの光景はすごいですよ。だから7回裏に入るまでは頑張って投げようという気持ちにもなりましたね。

甲子園の応援を味方につけていた感じですね。最後に一番思い出に残る試合をお聞かせください。

三浦 大輔

三浦
 初登板、初勝利、優勝も思い出ですが、やはり引退試合(ヤクルト戦)ですね。ボコボコに打たれましたが、最後(7回)は雄平と対戦(三振)して、幸せだなと思ってマウンドを降りられました。球場の外でも、たくさんの方に声援をいただき本当に幸せで大満足でした。
三浦大輔
みうら・だいすけ
1973年12月25日、奈良県橿原市出身。高田商高を経てドラフト6位で92年に大洋に入団。95年の序盤から先発ローテーションに定着し8勝をマーク。97年には初の2ケタ10勝を挙げ、背番号は46から18へ。翌98年は12勝で日本一に大きく貢献。05年には最優秀防御率(2.52)と最多奪三振(177)を獲得した。16年限りで現役を引退。通算成績は、535登板、172勝184敗0セーブ、奪三振2481、防御率3.60。