SEGA

野球つく!!

大人になった野球少年たちに贈る

スペシャルインタビュー

ホークスの主砲――平成唯一の三冠王 松中 信彦

ホークスが強くなった00年代の主砲を務め、04年には三冠王に輝いた松中信彦氏がセガゲームスの新作「野球つく!!」に登場。木製バットへの対応、ケガから打法を変えつかんだものとは……。

取材協力:株式会社東京ドームホテル/取材・構成:永山智浩/写真:菅原 淳

打率、本塁打、打点の中で最も意識したのは打点でした

松中信彦

「野球つく!!」をご覧いただきましたが、いかがでした。

松中
 僕の小さい頃のテレビゲームとは比べものにならないぐらい進化しているので、正直ビックリしています。一般の人はプロ野球の監督になれないし、この「野球つく!!」でチームをつくる感覚を味わえるのは夢がありますよね。

「野球つく!!」ではホームタウンをつくっていくという楽しみもあります。ホークスも博多そして九州と、ともに強いチームになっていったと思います。

松中
 僕が入団した頃は、いまのように超満員になることはあまりなかったんですが、球団の努力もあり、チームも強くなってファンが多くなりましたね。選手はファンがたくさんいる方が緊張感があって力になりますしね。
松中信彦

熊本出身の松中さんは、ダイエーを逆指名して入団しましたが、やはり地元を意識していましたか。

松中
 千葉(新日鉄君津)に5年間いましたが、やはり親孝行したいという気持ちが一番強く、近くで試合を見られる環境にしてあげるのが目標だったのでダイエーにしました。でも、その頃はあまりダイエーのことは詳しく知らなかったんですけどね(笑)。

1、2年目はなかなか一軍に定着できませんでした。金属バットから木製バットに変わり苦労したこともあったと。

松中
 金属は衝突打ち、木製はバットをしならせて打たないと飛ばないんですよ。その打ち方が分からなかったですね。石毛(宏典)二軍監督と立花(義家)二軍コーチに教えていただいて、やっと対応できるようになりました。
松中信彦

改善点はどういうところだったのですか。

松中
 金属は手首を返して打つと軽いのでファウルになることが多いんですよ。なので運ぶような感じで打っていたんですが、その感覚で木製を使うと全然飛ばなかった。逆に手首を返して打つぐらいの方が飛んでいくので、そういう練習をしました。それができるようになってから、木製で「運ぶ」という打ち方を勉強しました。
バットにも慣れ、3年目の99年はレギュラーを獲得。チームも福岡で初優勝しました。

プレッシャーの中で打席に立てる四番の仕事には、やりがいがありました

松中
 優勝はすごくうれしかったですね。僕が入団した時は(チームは)まだ弱く、負け癖がついている選手も多くて、それを王(貞治)監督が「どうにか変えよう」と頑張っていました。そこに小久保(裕紀)さんや僕、城島(健司)に井口(忠仁=現・資仁)、投手では永井(智浩)や星野(順治)らが入団して、「勝つ」という方向に気持ちが向き出した。そうなると負け癖がついていた先輩たちは居場所がなくなり(笑)、チームも変わっていった。そして優勝できました。

その頃、ダイエーの若手は同じ速度でどんどん成長していった感じでしたね。

松中
 年齢も近いしライバル心が強かったんでしょうね。僕も小久保さんを抜かないと一流にはなれないという気持ちを持っていましたし、とにかく誰にも負けない練習をしようと思っていました。
松中信彦

そういう切磋琢磨が強いチームをつくるんですね。00年はチームは連覇、初の3割をマークしMVPも獲得。その後は安定した成績を残し03年からは3年連続120打点以上のプロ野球記録もつくりました。

松中
 これだけは王(貞治)会長を上回ったので胸を張っています(笑)。もちろん前の打者が塁に出てくれたこともありますが、四番の仕事ができたのかなと感じますね。

そして、その中で04年には三冠王を獲得しました。

松中
 03年に右ヒザを痛めて、それまでの打法はすり足だったんですが、足を上げるようになったんです。それがうまくいきましたね。それにケガをしない体づくり、1年だけだったですけど禁酒をして、そのお陰で三冠王を獲れました。

平成年代では唯一ですよね。

松中
 そうですね。二冠王というのはそれなりにいるんですけど、なかなかないチャンスだったのでできれば獲りたいとは思いました。次の年は打率が届かず二冠に終わり、首位打者は西武の和田(一浩)さん。最後は迫ったんですがダメでした(7厘差の・315の3位)。
松中信彦

打率、本塁打、打点の中で最も意識してたものはどれですか?

松中
 やはり打点ですね。打点はチームの勝利に直結することが多いですからね。

打順のこだわりは?

松中
 もちろん四番ですね。打てない時にはいろいろ言われたこともありましたが、それで成長できた部分もあるし、この一打で勝敗が決まるというプレッシャーの中で打席に立てたし、四番の仕事はやりがいがありましたね。

主軸を任され、日本シリーズにも5度出場しています。99年(中日戦)が初めての出場でしたが、その時の気持ちは。

松中
 めちゃくちゃ緊張しました。

チームメイトのほとんどが初めてだったんですよね。

松中
 そうですね。あの時は(日本シリーズの)経験豊富な工藤(公康)さんが初戦に先発して、すごい投球をされて勇気をもらいましたね。それで若手の永井、星野らも乗っていきましたからね。

翌年は「ON対決」で話題となった巨人戦。19打数1安打と完全に抑え込まれました。

松中
 東京ドームでスタートして、第1戦は工藤さんからホームランを打ってチームは2連勝。福岡に戻ってから執拗なまでのインコース攻めにあって、訳が分からないまま終わってしまった感じですね。
松中信彦

かなりマークされていましたね。

松中
 04年の西武とのプレーオフ(第2ステージ)もそうでしたね。第1戦は大勝(9対3)するんですが、全球インコースを攻められました。大沼(幸二)からホームランは打ったんですが、インコースが好きな僕は手を出して行ってファウルが多かったんですね。それから崩れていったんですが、いま思うとファウルになること自体がおかしかったんですよ。いつの間にか体を開いて打っていたんでしょうね。

短期決戦ではシーズンと違った攻めをしてきますよね。

松中
 ホークスは短期決戦に弱いと言われて、僕が一番プレッシャーを感じてましたよね。だから06年のWBCもすごくプレッシャーを感じていました。
松中信彦

そのプレッシャーの中、全試合四番で30打数13安打の好成績を残し優勝に貢献しました。

松中
 どうにか結果を出したい、率を残したいという自分がいましたね。ただポストシーズンの戦いとは違いトッププレーヤーの集まりですから、次につなげようという意識でプレーできました。

来春には第4回のWBCがありますね。

松中
 パワーじゃなかなか通用しないので、日本らしい戦い方で勝ち上がってほしいですね。どんな戦いを見せてくれるか楽しみです。
松中信彦
まつなか・のぶひこ
1973年12月26日、熊本県八代市出身。八代第一高から新日鉄君津に進み、96年にはアトランタ五輪の日本代表となり銀メダルを獲得。ドラフト2位(逆指名)で97年にダイエーに入団。ホークスの主軸として活躍し、04年には史上7人目の三冠王を獲得。首位打者2回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打1回、最高出塁率3回。いずれも03~06年の4年間で獲得している。15年限りで現役を引退。00年と04年にMVP受賞。通算成績は、1780試合、1767安打、352本塁打、1168打点、打率.296。